第14話 静岡・相白味噌 ~白でもない、赤でもない。東西のあいだに生まれた味噌~

【第3章 江戸から静岡へ】

第14話 静岡・相白味噌

~白でもない、赤でもない。東西のあいだに生まれた味噌~

江戸甘味噌を訪ねた味噌の旅。

今度は江戸をあとにして、東海道を西へ向かいます。

箱根を越え、富士山を眺めながら進んでいくと、やがて駿河の国へ。

ここは現在の静岡県。

そして――

私たち鈴木こうじ店が、150年以上、麹と味噌をつくってきた土地です。

全国の味噌を旅してきましたが、今回はとうとう自分たちの故郷へ帰ってきました。


🌸 花ちゃんの「なぜ?」

静岡の味噌を見た花ちゃん。

「あれ?

白味噌みたいだけど、京都の白味噌ほど白くない。

でも、信州味噌ほど辛そうでもない。

これって……

白味噌なの?

赤味噌なの?
」

どちらとも、少し違います。

この味噌の名前は――

相白味噌(あいじろみそ)。

では、今回の「なぜ?」です。

なぜ静岡には、白味噌でも信州味噌でもない「相白味噌」が生まれたのでしょう?

その答えを探して、少し昔の駿河へ旅してみましょう。


1|相白味噌とは、どんな味噌?

まず相白味噌そのものを見てみます。

1965年に『日本醸造協会雑誌』に掲載された専門論文「相白みそについて」では、相白味噌は静岡県、とくに静岡市を中心とした駿河地方で昔から食べられてきた味噌と説明されています。

地元では単に「白みそ」と呼ばれてきました。

しかし、京都など関西地方の白味噌とは、原料の割合や製法、出来上がる味噌の性質が異なります。

味噌の分類でも、

京都白味噌など=白色系・甘口

相白味噌=淡色系・甘口

信州味噌=淡色系・辛口

と区別されています。

つまり相白味噌は、

京都の白味噌そのものでもない。

信州味噌そのものでもない。

その間に独自の居場所を持った、駿河の味噌なのです。


2|駿府には、京都の文化がやってきた

相白味噌の由来を調べると、しばしば登場するのが今川氏と京都文化との交流です。

戦国時代の駿府には京都の文化が入り、その交流の中から京風の白味噌の影響を受けた味噌がつくられ、それが相白味噌へつながった――という由来が現在も伝えられています。

ただし、ここは大切なところです。

「今川義元が相白味噌をつくらせた」

「京都から来た公家が相白味噌を発明した」

と直接証明できる史料までは、今回の調査では確認できませんでした。

ですから全国味噌マップでは、

「今川文化と京都文化との交流の中から生まれたと伝えられている」

としておきましょう。

歴史には、「分かっていること」と「伝えられていること」の両方があります。

それもまた、味噌を旅する面白さです。


3|そして徳川家康が駿府へ

時代が進むと、駿府にもう一人、大きな人物が登場します。

徳川家康です。

家康は幼年期、壮年期、晩年と三度にわたって駿府で過ごしました。

1605年に将軍職を秀忠へ譲り、1607年には大御所として駿府城へ入ります。

晩年の駿府は単なる「隠居の町」ではありませんでした。

政治・外交・寺社政策・文化政策に携わる人々のほか、僧侶、学者、商人、外国人まで家康のもとへ集まり、駿府は大御所政治の重要な拠点となりました。

家康が相白味噌をつくったわけではありません。

それでも、

人と文化が集まる都市・駿府

という環境は、静岡の食文化を考えるうえで欠かせません。


4|家康の死後も残った、駿府という町

家康は1616年に亡くなり、久能山に葬られました。久能山東照宮は、現在も静岡と家康との深いつながりを伝えています。

そして駿府はその後、東海道の宿場町「府中宿」として栄えます。

静岡市は府中宿を、東海道で最大規模の宿場町だったと紹介しています。

江戸から京都へ。

京都から江戸へ。

商人が歩く。

旅人が歩く。

物資が動く。

食べ物が動く。

そして文化も動く。

街道を人が旅し、文化が旅し、味噌も変わっていった。

相白味噌を考えるとき、この「東海道」という存在はとても興味深い背景です。


5|静岡は「東」と「西」が出会う場所

静岡県は日本列島のほぼ中央にあります。

農林水産省も静岡県について、

東日本と西日本のほぼ中央に位置し、東西の食文化の接点となっている

と説明しています。

さらに静岡の伝統食を、

「富士山と駿河湾の恵み、東西の交流が育んだ食文化」

と表現しています。

これは味噌だけではありません。

だし。

醤油。

麺のつゆ。

雑煮。

さまざまな食文化を見ていくと、静岡には東と西の文化が重なっていることが分かります。

ただし、「東西を分ける境界線」が一本引かれているわけではありません。

料理によって違う。

地域によって違う。

家庭によっても違う。

だから静岡の食文化は面白いのです。


6|「どっちつかず」ではなく、「どちらも受け入れる」

相白味噌も、そんな静岡らしい味噌なのかもしれません。

西には、京都の白味噌。

東には、信州を代表とする淡色辛口の米味噌文化。

その間にある駿河では、

白味噌ほど甘くない。

信州味噌ほど辛くない。

白味噌ほど白くない。

長期熟成の赤味噌ほど色も濃くない。

一見すると、

「どっちつかずの味噌」

にも見えます。

でも私は、長く静岡で味噌をつくってきて、少し違うように感じます。

どっちつかずなのではなく、どちらも受け入れられる。

それが静岡の味なのではないでしょうか。

もちろん「東西の中間だから相白味噌が生まれた」と直接証明する史料があるわけではありません。

これは歴史的事実ではなく、静岡の食文化と相白味噌を見続けてきた麹屋としての考察です。


7|相白味噌は、とろろ汁によく合う

相白味噌を語るうえで欠かせない静岡の料理があります。

とろろ汁。

東海道・丸子宿の名物です。

静岡県の公式資料でも、丸子周辺で「白味噌」と呼ばれている味噌は、京都の白味噌と田舎味噌の特徴を併せ持つ淡色系米味噌=相白味噌と説明されています。

自然薯をすり、

だしを加え、

相白味噌で味を整える。

麦飯にたっぷりとかける。

味噌が強く出すぎないからこそ、自然薯やだしの味が生きます。

これは相白味噌が駿河の食卓に根づいた理由を考える、大きなヒントの一つだと思います。


8|海の味にも、相白味噌

静岡は海の町でもあります。

駿河湾を抱え、県内ではカツオ、マグロ、桜エビ、シラスなど、多彩な水産物が食文化をつくってきました。

鈴木こうじ店でも、比較的短い熟成期間で販売している若い味噌があります。

麹の香りと甘味がまだ生きていて、味わいも比較的軽やかです。

私自身、この味噌は魚介類によく合うと感じています。

焼津のかつおにもよく合います。

これは「静岡の魚には必ず相白味噌」という歴史的な決まりがあるという意味ではありません。

長年味噌をつくり、食べてきた麹屋としての実感です。

海の旨味を味噌で覆ってしまうのではなく、

魚の旨味に、麹の甘味を添える。

そんな使い方ができるのも、若い味噌の魅力です。


9|久能の葉しょうがと、白い味噌

もう一つ、静岡らしい組み合わせがあります。

久能葉しょうが。

久能は、久能山と駿河湾に挟まれた温暖な土地です。

静岡県の「しずおか食セレクション」にも選ばれている久能葉しょうがは、砂地と温暖な気候を生かして栽培され、爽やかな香りと食感を特徴としています。

そして面白いことに、地元JAが紹介する生産者自身も、生の葉しょうがに味噌マヨネーズをつける食べ方をすすめています。

私たちの白っぽい若い味噌にも、しょうがはよく合います。

麹の甘味。

味噌の塩味。

しょうがの爽やかな辛味。

とても単純な組み合わせなのに、それぞれの味が引き立ちます。

そして久能山には、家康が眠る久能山東照宮があります。

歴史を追っていたはずなのに、いつの間にかまた食卓へ戻ってくる。

これも静岡らしいところです。


10|海・山・街道。その真ん中に味噌がある

ここまで来ると、相白味噌を「味噌の種類」だけで説明するのが、少しもったいなく感じてきます。

山・街道――丸子の自然薯と、とろろ汁。

海――駿河湾の魚介、焼津のかつお。

畑――久能の葉しょうが。

そして、その真ん中に、

相白味噌。

味噌は単独で生まれるものではありません。

その土地で採れるもの。

その土地で食べるもの。

その土地を行き交った人。

そして、その土地で暮らしてきた人。

そうしたものと一緒になって、

「土地の味」になっていく。

相白味噌も、そんな駿河の暮らしの中で育ってきた味噌なのかもしれません。


11|そして慶応元年、鈴木こうじ店が生まれる

時代は幕末へ進みます。

慶応元年(1865年)。

鈴木こうじ店は、ここ静岡の地で創業しました。

江戸幕府が終わる、ほんの少し前のことです。

そして明治維新後、静岡には最後の将軍・徳川慶喜をはじめ、多くの旧幕臣たちが移住してきます。

慶喜自身も、謹慎後の1869年から1888年まで約20年間、現在の静岡市中心部、のちの浮月楼となる場所を拠点に暮らしました。

家康が晩年を過ごした駿府。

江戸幕府最後の将軍が新しい人生を送った静岡。

そして、その大きな時代の転換点に生まれた一軒の麹屋。

それが鈴木こうじ店です。


12|鈴木こうじ店に残る「若い味噌」

鈴木こうじ店では、今も米麹を多く使った味噌をつくっています。

その一つが、

米麹12割。

そして、

2~3週間ほどの短期熟成。

大豆は煮るのではなく、蒸して仕上げます。

前回訪ねた江戸甘味噌も、高麹・短期熟成という特徴を持っていました。

でも、同じではありません。

江戸甘味噌の伝統的な製法では、蒸した大豆を釜の中に長く置く「留釜」によって、仕込み前から赤褐色をつくる方法があります。相白味噌についての専門資料では、白く仕上げるために大豆を煮る方法なども説明されており、製法の考え方は異なります。

鈴木こうじ店では留釜は行いません。

だから同じように米麹を多く使い、短期間で仕上げても、

江戸甘味噌とは、

色も、

香りも、

味も違います。

ここにも味噌のおもしろさがあります。

同じ大豆・米・塩でも、「どう仕込むか」でまったく違う味噌になる。


13|150年以上、同じ土地で味噌をつくって分かること

私たちは、相白味噌の歴史をすべて知っているわけではありません。

昔の職人が何を考えて配合を決めたのか。

なぜこの土地でこの味が好まれたのか。

史料だけでは分からないこともあります。

でも、150年以上この土地で麹と味噌をつくっていると、感じることがあります。

味噌は、

土地の食べ物に寄り添いながら残っていく。

とろろ汁に合う。

魚に合う。

かつおに合う。

葉しょうがに合う。

そして毎日の味噌汁にも合う。

もしかすると味噌は、人間が一方的につくったものではなく、

土地の食卓によって育てられてきたもの

なのかもしれません。


14|「相白」という名前

「相白」という名前については、京都の白味噌と田舎味噌の性質を相伴うことから名づけられた、という説が紹介されています。

ただし、その語源を確定できる古い一次史料までは、今回確認できませんでした。

ですから、ここも断定せずに考えてみます。

もし「相伴う」という言葉に、その意味が込められているのなら――

これほど静岡らしい名前もありません。

東と西。

海と山。

武家と庶民。

街道と港。

白味噌と辛口味噌。

どちらか一つを選ぶのではなく、どちらも受け入れる。

それが相白味噌なのかもしれません。


🌸 花ちゃんのひとこと

「最初はね、

白味噌でもないし、

信州味噌でもないから、

“どっちつかずの味噌”なのかなって思ったの。」

「でも違ったんだね。」

「どちらも受け入れて、静岡の味になったんだ。」


全国味噌カード No.13

静岡・相白味噌

地域:静岡県・駿河地方

種類:米味噌

分類:淡色系・甘口

麹:米麹

色:白~淡い山吹色系

味:麹の甘味を感じる穏やかな味わい

特徴:関西白味噌とは異なる、駿河独自の淡色甘口味噌

文化:東西食文化の交流点・東海道

代表的な料理:とろろ汁

相性のよい地元食材:自然薯、魚介、かつお、葉しょうが

鈴木こうじ店の仕込み例:米麹12割・蒸し大豆・2~3週間ほどの短期熟成

キーワード:駿府・東海道・相白・米麹・とろろ汁・駿河湾・久能

※相白味噌の配合や製法は製造者によって異なります。鈴木こうじ店の数値は当店の仕込み例であり、相白味噌全体の規格を示すものではありません。


麹屋から見た、相白味噌

全国の味噌を旅してきました。

北海道から始まり、

津軽、南部、秋田。

仙台、会津。

海を渡って佐渡へ。

越後、越中、加賀。

山を越えて信州へ。

そして巨大都市・江戸。

そこから東海道を歩いて、

ようやく静岡へ帰ってきました。

こうして全国の味噌を見てから自分たちの味噌を見ると、以前とは少し違って見えます。

相白味噌は、

単に「白っぽい味噌」ではありませんでした。

人が行き交い、

文化が行き交い、

山の幸と海の幸が出会う場所で、

長い時間をかけて静岡の食卓になじんでいった味噌だったのだと思います。

相白味噌は、東西の文化を「相伴う」、駿河の味だった。

そして、その味は今も、

私たちの毎日の味噌汁の中に生きています。


次回予告

次回、味噌の旅は東海道をさらに西へ。

駿河から遠江を越え、三河へ。

そこで出会うのは、これまでの米味噌とはまったく違う「豆味噌」です。

なぜ東海地方では、米麹を使わず“大豆そのものを麹にする味噌”が生まれたのでしょう?

味噌の旅は、まだまだ続きます。


鈴木こうじ店

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