第12話 信州味噌 ~山国から全国へ。日本一の味噌どころは、なぜ生まれたのか~
【第2章 日本海と山国の味噌】
第12話 信州味噌
~山国から全国へ。日本一の味噌どころは、なぜ生まれたのか~

加賀をあとにして、
味噌の旅は日本海から離れます。
山を越えて向かうのは――
信州・長野県。
海のない山国です。
北アルプス。
中央アルプス。
南アルプス。
八ヶ岳。
高い山々に囲まれ、その山から流れ出す豊かな水があります。
そして信州を旅すると、あちらこちらで出会う言葉があります。
「信州味噌」

日本で味噌を食べている人なら、一度は聞いたことがある名前でしょう。
信州味噌は、淡色・辛口を代表する米味噌として知られています。農林水産省も、淡い色と若干酸味を感じる芳香を特徴として紹介しています。
でも、花ちゃんが不思議そうに言いました。
「海もない山の中なのに、どうして信州がこんなに大きな味噌どころになったの?」
そうなんです。
今回の「なぜ?」は――
なぜ信州は、日本を代表する味噌産地になったのでしょう?
その答えを探して、
信州味噌の旅を始めます。
️ 山に囲まれた信州
長野県は山の国です。
でも、
「山国だから、どこも同じ」
ではありません。
佐久。
松本。
諏訪。
伊那。
木曽。
善光寺平。
盆地や谷によって、気候も農業も食文化も違います。
山間地では米だけでなく、小麦、蕎麦、雑穀なども利用され、それぞれの土地に合った食文化が育ってきました。
その代表が「おやき」です。農林水産省も、寒冷で急峻な土地では米づくりに適さない場所も多く、粉食文化が発達したことを紹介しています。
そんな信州の暮らしの中で、
大豆。
米。
麹。
塩。
これらを仕込み、長く保存できる味噌は大切な食品でした。
信州味噌の歴史をたどると、鎌倉時代へ

信州味噌の歴史をたどっていくと、
一人の僧侶が登場します。
心地覚心(しんち・かくしん)。
長野県味噌工業協同組合連合会では、鎌倉時代、覚心が現在の佐久市に創建した安養寺で味噌づくりが広まったことを、信州味噌の歴史の一つとして紹介しています。
ただし、
「覚心が日本で初めて味噌をつくった」
という意味ではありません。
日本の味噌文化そのものは、さらに古くまでさかのぼります。
ここでは、
信州味噌の歴史を語る重要な伝承の一つ
として見ておきましょう。
そして時代は、
戦国時代へ進みます。
⚔️ 武田信玄と味噌
信州味噌の歴史には、
もう一人、有名な人物が登場します。
武田信玄。
長野県味噌工業協同組合連合会では、戦国時代、武田信玄が兵糧として味噌をつくらせたことによって、信州で味噌づくりが盛んになったと紹介しています。
軍勢が移動するには、
保存できる食料が必要です。
味噌は、
塩を含み、
保存でき、
料理にも使える。
前回旅した加賀味噌でも、軍用の貯蔵食品として味噌が盛んにつくられたという歴史がありました。
加賀では前田家。
信州では武田信玄。
土地は違っても、
「保存できる味噌」が、人々を支えた。
そんな共通点が見えてきます。
でも、ここで一つ大きな疑問
味噌をつくるには、
大豆+麹+塩
が必要です。
大豆は信州でもつくれる。
米もつくれる。
水は山から流れてくる。
麹もつくれる。
ところが――
塩は?
花ちゃんが気づきました。
「あれ? 信州には海がないよ!」
そうなんです。
海のない信州では、
海水から塩をつくることができません。
では、
味噌を仕込むための塩は、
どこから来たのでしょう?
ここで、
味噌の旅は突然、
「塩の旅」
へ変わります。
ちょっと寄り道
海のない信州に、塩はどうやって来たの?

長野県のほぼ中央。
松本盆地の南側に、
とても面白い名前の町があります。
塩尻市。
「塩」の「尻」。
どうして海のない信州の真ん中に、
「塩」という字がつく町があるのでしょう?
塩尻市は地名の由来について諸説あるとしたうえで、その一つとして、
海から運ばれてきた塩の道の終点、つまり塩の「尻」だった
という説を紹介しています。
「尻」は、
終わり。
最後。
しっぽ。
つまり、
「塩が行き着くところ」=塩尻。
そう考えられてきたわけです。
※塩尻の地名の由来には複数の説があり、「塩の道の終点説」が唯一確定した語源というわけではありません。
日本海から、塩が山を越えてやって来る
塩尻の北には、
松本。
さらに北へ進むと、
大町。
そして山を越えた先に、
日本海があります。
新潟県・糸魚川。
ここから信州へ伸びていたのが、
千国街道。
現在では、
「塩の道」
としてよく知られています。
糸魚川から、
千国。
大町。
松本。
そして塩尻へ。
日本海側から塩や海産物などが運ばれ、山国・信州の暮らしを支えました。塩尻市も、糸魚川から千国・仁科を経て塩尻へ至る道を、信州へ塩などを運んだ重要な街道として紹介しています。
想像してみてください。
今のように、
トラックもありません。
高速道路もありません。
重い塩を、
人や牛馬が運びます。
海辺から、
谷を通り、
峠を越え、
山を越え、
信州へ。
塩も旅をしていたのです。
そして信州は、太平洋側ともつながっていた
さらに面白いことがあります。
塩尻から南へ向かうと、
伊那谷があります。
ここを通るのが、
三州街道(伊那街道)。
塩尻から伊那谷を南下し、三河方面へつながる重要な交通路でした。塩尻市は、三州街道が中馬による物資輸送でも重要な役割を果たしたことを紹介しています。
つまり、
信州は海のない国ですが、
決して、
海から切り離された国ではなかった。
北へ行けば、
日本海。
南へ行けば、
三河・東海道方面。
街道によって、
人も、
物も、
塩も、
山を越えてきたのです。
️ 塩尻は「日本の水の分かれ道」でもある

さらに塩尻周辺を地図で見ると、
もう一つ面白いことに気づきます。
この地域には、
日本海側へ流れていく水系と、太平洋側へ流れていく水系の分水界があります。
塩尻市域には塩尻峠、善知鳥峠、鳥居峠などがあり、山を越えれば流れる水の方向まで変わります。
これを味噌の旅として眺めると、
なんとも面白い場所です。
日本海側
糸魚川
↓
千国街道
↓
大町
↓
松本
↓
塩尻
そして南へ、
塩尻
↓
伊那谷
↓
三州街道
↓
三河
↓
太平洋側
塩尻は、
山国の奥地というより、
日本海と太平洋側の文化が出会う場所
として見ることもできるのです。
そして、塩は味噌になる
ここで、
ようやく信州味噌へ戻ります。
山で育てた、
大豆。
田んぼで育てた、
米。
米からつくった、
米麹。
山から流れてきた、
水。
そして、
遠い海から、
山を越えて運ばれてきた、
塩。
これらが、
一つの桶の中で出会います。
大豆+米麹+塩+水+時間=信州味噌
こう考えると、
味噌は単なる発酵食品ではありません。
田んぼと畑だけでなく、
海も、
山も、
街道も、
味噌づくりに関わっていたのです。
今回の旅で見つけた、
もう一つの言葉は――
「味噌をつくる塩も、山を越えて旅をしていた。」
信州味噌は、なぜ山吹色なの?

さて、
信州味噌へ戻りましょう。
信州味噌の代表的な特徴は、
淡い山吹色。
そして、
辛口。
農林水産省は、信州味噌を淡色・辛口で、若干酸味を感じる芳香が特徴の米味噌として紹介しています。
前回の加賀味噌と比べると、
違いがよく分かります。

加賀味噌
米麹をしっかり使う
↓
長期熟成タイプも多い
↓
山吹色~赤系
↓
深いコク
一方、
信州味噌
米麹を使う
↓
明るい色調を大切にする
↓
淡い山吹色
↓
すっきりした辛口
同じ米味噌でも、
目指す味が違うのです。
山吹色を守る「味噌の研究所」
ここで信州味噌ならではの話が登場します。
長野県味噌工業協同組合連合会には、
信州味噌研究所
があります。
ここでは、
麹菌。
酵母。
乳酸菌。
色。
香り。
味。
味噌づくりそのものを科学的に研究してきました。
同研究所では、信州味噌らしい色調などを意識した麹菌の研究や、耐塩性酵母Y7株の培養・供給なども行われています。
つまり、
信州味噌の山吹色は、
昔の職人の経験だけで守られてきたものではありません。
伝統+科学。
これが、
現代の信州味噌を支えているのです。
なぜ信州味噌は全国へ広がったの?
信州で昔から味噌がつくられていた。
でも、
それだけでは全国的な大産地になった理由にはなりません。
大きな転機の一つが、
1923年、関東大震災。
首都圏では多くの醸造業も被害を受けました。
そこで信州から東京方面へ味噌が送られ、その品質が評価されたことが、首都圏へ市場を広げる契機になったと長野県味噌工業協同組合連合会は説明しています。
山国でつくられた味噌が、
東京へ。
そして、
全国へ。
ここでも、
味噌が旅をします。
製糸工場が、味噌工場へ
さらに信州味噌の歴史を調べると、
意外な産業が登場します。
養蚕・製糸業。
特に諏訪地方は、
かつて製糸業で栄えました。
長野県味噌工業協同組合連合会は、製糸工場の閉鎖後、工場で働く人々のためにつくられていた自家用味噌の技術や、空いた工場を利用して味噌生産へ移った例を紹介しています。
蚕を育てる。
糸をつくる。
工場で働く。
働く人が食べる。
そのために、
味噌をつくる。
そして製糸産業が変わると、
設備と技術が、
味噌産業へ受け継がれる。
産業が変わっても、人の技術は残った。
信州味噌が大産地になった背景には、
こんな物語もあったのです。
戦後、再び東京へ
第二次世界大戦後にも、
信州味噌は東京市場との結びつきを強めていきました。
首都圏の生産設備が大きな被害を受ける一方、長野県に残った生産基盤から味噌が供給され、その後の市場拡大へつながったとされています。
しかし、
たくさんつくるだけでは、
全国ブランドにはなれません。
「品質」を揃える努力
生産量が増えれば、
蔵による品質の違いも問題になります。
そこで信州では、
品質検査。
醸造研究。
酵母や麹菌の研究。
工場の近代化。
生産技術の改善。
こうした取り組みが積み重ねられてきました。
つまり、
信州味噌が全国へ広がった理由は、
「長野の気候が味噌に向いていたから」
という一言では説明できません。
古くからの味噌文化。
街道を通って届く塩。
製糸産業からの転換。
東京という大市場。
災害後の供給。
品質管理。
科学的研究。
そして、
つくり手の努力。
それらが重なって、
現在の信州味噌になったのです。
信州の暮らしにも味噌がいる

もちろん、
信州味噌は工場だけの話ではありません。
家庭の食卓にも、
味噌があります。
代表的なのが、
おやき。
小麦粉などでつくった皮で野菜を包む郷土料理で、地域や家庭によっては、なすと味噌を合わせた具なども使われます。
そして木曽・伊那地方には、
五平餅。
半搗きのうるち米を串につけ、味噌や醤油などを使ったタレを塗って焼きます。くるみなどを合わせる地域や家庭もあります。
味噌汁だけではありません。
焼く。
包む。
漬ける。
和える。
信州の暮らしの中には、
いろいろな姿の味噌があります。
麹屋から見た「信州味噌」
今回、
信州味噌を調べて、
私が一番興味深く感じたのは、
「昔と同じことを続けたから、全国ブランドになったわけではない」
ということでした。
古い味噌文化を土台にしながら、
必要な塩を山の向こうから運ぶ。
災害が起きれば、
東京へ味噌を送る。
産業が変われば、
製糸工場や技術を生かす。
生産が増えれば、
品質を研究する。
麹菌や酵母まで研究する。
信州味噌は、
「変わりながら、伝統をつないだ味噌。」
だったのではないでしょうか。
伝統とは、
昔とまったく同じことをするだけではない。
時代に合わせて変わりながら、
大切なものを次へ残していく。
長く麹屋を続けている私たちにとっても、
考えさせられる歴史です。
全国味噌マップ No.11
信州味噌
地域 長野県
種類 米味噌
麹 米麹
色 淡色・山吹色系
味 辛口系
香り さわやかな発酵香、若干酸味を感じる芳香
特徴 明るい色とすっきりした味わい
歴史 鎌倉時代の安養寺にまつわる味噌づくり、戦国期の兵糧味噌などの歴史が伝わる
塩 海のない信州へ街道を通じて運ばれた
塩の道 糸魚川―千国街道―大町―松本方面
交通 塩尻は複数の街道が交わる交通の要衝
転機 1923年の関東大震災後の首都圏への供給
産業 製糸産業から味噌生産への転換例、品質管理・研究・近代化
食文化 おやき・五平餅など
キーワード 山国・米麹・塩の道・塩尻・山吹色・辛口・製糸・東京・研究
※信州味噌にも、地域・蔵元・商品によって麹歩合、塩分、熟成期間、色、香味などに幅があります。
「鈴木こうじ店おすすめ信州味噌」は次の調査へ
ここは、
まだ配合を決めません。
次は現在の信州の蔵元を実際に調べて、
麹歩合
塩分
熟成期間
大豆の処理
色
を比較します。
昔ながらの信州味噌。
現在の信州味噌。
そして、
鈴木こうじ店なら、
どんな信州味噌を仕込むのか。
数字を確認したうえで、
大豆1kg基準の配合
を決めたいと思います。
花ちゃん、塩尻で気づく
花ちゃんが、
塩尻の古い街道に立っています。
北を向けば、
松本、大町、
その向こうに糸魚川と日本海。
南を向けば、
伊那谷を通って三河方面へ。
花ちゃんが言いました。
「信州って、海がないんじゃなくて、
道で海とつながっていたんだね。」
そうなんです。
大豆が旅をする。
人が旅をする。
味噌が旅をする。
そして、
塩も旅をする。
海から山へ。
峠を越えて、
人から人へ。
そして最後は、
味噌桶の中へ。
今回の信州味噌の旅で見つけた答えは、
一つではありませんでした。
「味噌をつくる塩も、山を越えて旅をしていた。」
そして、
「信州味噌は、変わりながら全国へ旅をした。」
山国だったから、
閉ざされていたのではない。
山国だからこそ、
人は道をつくり、
物を運び、
文化をつないできた。
その一つが、
信州味噌だったのです。
次回予告
信州の山を越え、
旅はいよいよ江戸へ向かいます。
そこで待っているのは、
これまで旅してきた辛口の味噌とは、
まったく違う味噌。
赤いのに、甘い。
第13話 江戸甘味噌
~なぜ江戸では「赤くて甘い味噌」が生まれたのか?~
そして、
その先には、
静岡の相白味噌が待っています。
日本の味噌を、もう一度旅してみよう。
鈴木こうじ店
創業百五十余年の伝統と職人の技術で、皆様の美味しい発酵ライフをサポートいたします。
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